ポストカード 湯田温泉 編集後記
04月11日
表題の放送は日曜日までです。
3回に分けて、計6週間も放送したわけですが、最近の中では断トツで好評で、各所から温かい感想のメッセージを多数頂きました。
視聴者さんや家族友人、職場の人、さらには学芸員の方からも。
広く浅く視聴率を稼げるような題材ではないかもしれませんが、ある特定の人に深く刺さるようなテーマだったと思います。
視聴率を測っていないメディアということが奏功するというのは新たな気づきであったし、他メディアとの差別化という意味でも非常に実りの多い回になりました。
こういう放送回こそ大切にせねばと思った次第でございます。

桑木さんの絵はがきの資料を番組で紹介後、絵はがきの実物を見たいと、わざわざ山口県文書館に足を運ばれた方がいらっしゃったそうです。
テレビを見たことで誰かにそういう行動意欲を起こさせたという一点だけでも、私たちとしては、放送した甲斐があったというものでございます。
改めて関係してくださった皆様、ありがとうございました。

本来は放送したものが私の仕事の全てです。
しかし、これに入りきらなかったものは弊社のアーカイブには残らず、私の頭の中にのみ記録され、これも日々の生活のあれこれにまぎれて、いつのまにやら消えて行ってしまいます。
毎週更新のレギュラー番組という性質上、放送を終えてほっと息をついているとすぐ次の放送日が迫ってきましてね。
もう次の月にはすっかり大切な記憶が抜け落ちてしまうってことの繰り返し。
なんとも言えない残念な気持ちにたびたびなってきたわけです。
そこで、今回は放送には入りきらなかったことを書いても差し支えない範囲で少しこちらに書き留めておこうと。
とりあえず、湯田温泉最後の芸妓・市子さんに行った2時間半のインタビューを文章に起こしました。
お時間が余ってどうしようもない方は、どうぞ(^^)/
◆3月10日取材 湯田温泉最後の芸妓・市子さん 取材
数日前に取材した津山鮮魚店さん(湯田温泉)のご紹介で市子さんという元芸妓さんのご自宅へ伺う。
市子さんは湯田温泉の最後まで芸妓をしていた7人のうちの1人。
湯田温泉には昔は芸者がいたが平成一桁代には「絶滅」した。
戦後の多いときは200人くらいいたらしい。
(※別の資料によると140人との記載もあった)
市子さん=昭和8年11月生まれ。92歳と思えないようなしっかりした語り口調。
ご自宅もきちっとかたずけられていた。
ただカメラは恥ずかしいから声の録音のみということでお話をさせていただいた。

(話:市子さん/聞き手:松田D)
市子さんはバスガイドなどを経て、20歳くらいで芸妓の世界に入った。
これは遅いほうで、通常は中学校卒業後15歳から16歳で置屋に入るのが一般的。
舞妓さん、仕込みさんというところからスタートする。
置屋(おけや)さんは湯田にたくさんあった。今でもその名残がある。
そこに住み込みで暮らし、芸を磨いたりいろいろなことを学ぶ。

置屋の規模もまちまちで、芸者が1人しかいない所もあれば10人くらい抱えているところもあった。
市子さんは三井という置屋。
「三井席の市子」という呼ばれ方をする。
今も京都や東京の新橋などで見られる「芸者の文化」がかつては湯田でもあった。
ただしそこまでの仰々しくはなかった。
「温泉芸者」といわれ、少し下に見られることもあった。

仕事は宴席で歌や踊りを披露し、お客さんに酌をして話し相手になる事。
団体客には団体客の、個人客には個人客の対応があり、話す内容も相手によって変えていた。
なのでいろんな話題に精通している必要があった。
お座敷では絶対にものを食べてはいけなかった。
質の悪い芸妓や、ずっと後の時代、宴席に入ったコンパニオンが客の物を食べていたの見て驚いた。

いろんな偉い方とも接した。政治家で偉そうにしている人はあまりいなかった。
岸信介さんも旧山中の同窓会などで来られた時には懇意にして下さった。
坂倉新兵衛さん・松林桂月さんなどにはよく呼ばれた。ちとせ旅館などに。
お昼から来られてただそこにいてくれるだけでよいという感じ。
ちとせ旅館もだが、いろんな旅館に”おごうさん”という格の違う女将さんがいた。 
置屋さんから踊りや三味線の先生に習いに行く。踊りの先生は花柳さんという人。
若いときは毎日。それがめんどくさかった(笑)
ただ稽古をやらないと急にやれと言われてもできない。
できるようにしとかないとプライドが許さない(笑)
踊りや唄(長唄)ができてから三味線というような流れ。
若いときは三味線まで行くというのはそんなにいない。
稽古はそんなに厳しいものではなかった。京都みたいなきちっとした感じではなかった。
ただ何もできないと舐められるのでやっていた。

遊郭が廃止になった後(昭和30年代)、そっちから流れてきた芸妓もあった。
それは九州などの人が多かった。
踊りや三味線などの芸事が出来なくても大丈夫だった。
よほどの不器量でない限り着物を着て話し相手が務まれば場はもつから。
それほど湯田温泉のお客さんはとても多かった。
最初のころはお正月などは日本髪を結って貰っていた。
次第に日本髪風のカツラになった。市子さんは福岡でカツラを作った。
普段は洋髪を毎日近所で結って貰っていた。

湯田検番という置屋が集まってできた事務所みたいなものがあった。
そこに事務員が2~3人詰めている。
壁に芸妓の名前の書かれた木の板がずらーと並んでいた。
表面には黒字、これは在席。ひっくり返した裏面は赤字、つまり接客中で不在という意味。
現在の居酒屋があるところにあった。2階建てだった。
月に一回芸妓を集めて総合稽古があった。
市子さんは20代で一度辞めていたが、友人の勧めで35,36歳(昭和43年頃)で再び芸妓の世界に戻った。
この頃から次第に芸者が必要とされなくなってきて、宿が団体客の食事の時間に芸妓の踊りを提供。
それが仕事のメインになっていった。
最終的には踊りでまわっていた。

昭和57年に湯田検番がなくなって最後に芸妓を集めてお別れ会をした。
(写真を撮ったんだけど見つからない)
その後、各々でやるのは非効率なので、希望者をつのって自主営業を始めた。
大きなお姐さんを代表に据えて、事務員さんを一人雇い、芸妓から会費をあつめて事務員の給料にあてた。
しばらくは頑張って続けたが30年前くらいに辞めたと思う。
60歳くらい(平成7年ごろ?) 最後は7人くらいだった。
お客さんからそんなにお金をもらえないし、事務所の家賃も払えなくなるし…

大変だったことは今思い出せない。でも泣いたりすることはなかった。
自分は年上のお姐さんにずいぶんかわいがってもらった。

自分が働き始めた時代(昭和28年ごろ)は、まだ家の借金を返すために置屋に来る人がいた。
炭鉱がつぶれたとか、そういう訳アリで借金返済までやめられない人もいた。
繁盛していた時代は2席を掛け持ちしたこともある。
ちょっと別の場所に行ってくると言って中座していた。
市子という名前は京都の芸者の市子さん(=雑誌の表紙に載った人)にあこがれてつけた。
置屋のおかあさんも賛成してくれた。
〇〇子という芸妓は珍しかった。○○奴とかそういうのはいたけど。
◆大正時代の絵はがきを見てもらった

ここは野原旅館。壺湯とかがあった。懐かしいねぇ。
よくここにお風呂を入りに行った。千人湯があったけどこっちのほうが近かったから。
これは自分の毛を結ってるね。カツラではない。
普段着でしょ。帯がお太鼓ではないからわかる。
桶を持ってるし、これは芸者さんがお風呂に行って帰るところであろう。
髪は油でべとべと。普通のシャンプーじゃ落ちないので専門の「くろんぼ」というので洗っていた。
置屋には不思議とお風呂がなかった。湯田だからかもしれないがみんな外にお風呂に行ってた。
検番の前に輪タク屋があって3台あった。芸者は2人乗れる。
おじさんが自転車をこいで連れて行ってくれる。
今でいう人力車に自転車を付けたようなもので安定感があった。
松田屋まで歩いて行くようなことはなかった。
末期は輪タクもなかったから歩いて行ったけど。

芸妓というのは場の潤滑油。
最初は緊張するけど、お酒の力で場が和み芸者が盛り上げる。
緊張もあったが、やりがいがあった。
でも若いときは怖かったし辛かった。
ただきれいな着物を着られるのが嬉しかった。借金だったけど。
一回だけ湯田検番の中で売り上げが一番になったことがあった。
嬉しかった。

芸も三味線も自分よりも優れている人がいたので、よく本を読んで話題に事欠かないような芸者を目指した。
フランスの小話とかの本を読んだ。
若いお客さんは必ず緊張してる。
男はやっぱり45~6からよね。
一番面白い時期は50前後。面白い話もしてくれるし。
逆に芸者を笑わせてくれる。
(…ほか雑談などあって終わり:編集:松田)
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今回の聞き取りで、自分が生きていない時代のほんの少しばかりの空気感を味わうことができました。
芸妓さんという職業上、なかなかお話ができないようなこともあったと思いますが、2時間半の長時間にわたり私のばかばかしい質問に真正面から答えてくださいました。
こういう取材メモというのもきっと誰かの、(あるいは未来の誰かの)お役に立てるような気がしています。
市子さんが芸妓の仕事に誇りをもって打ち込んだように、私たちも地元に暮らしていた人々の息遣い、生きてきたあかしの一端をご紹介できるようまじめに頑張ろうと思った次第でございます。
長文失礼をいたしました。
次週より、名水でカレーライスをつくるという企画がはじまります。
どうぞこちらはこちらでお楽しみを!
ディレクター マツダダイスケ







